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STUDIO古都テレビ第100回放送情報チャンネル

昭和14(1939)年、逓信省は支那事變が長期化する中、
航空戦力の増強を図るため全国15ヶ所に国営航空機乗員養成所と付属飛行場の設置を計画。

この計画を知った京都市、京都航空協會、京都商工會議所は将来の京都市発展の基盤と位置付け、昭和14(1939)年2月16日、航空局に養成所・飛行場の設置を強く申請し、適当な用地を確保する事で認可を受けます。

昭和15(1940)年1月、京都府は「新興都市計画」の中核として國際工業(國際航空工業の前身)の誘致に成功します。

2月26日、縄張りが開始され、3月、用地買収(工場・格納庫・飛行場用地は國際工業、航空機乗員養成所・飛行場用地は京都府)を実施、
4月16日、京都府主催の起工式が大久保尋常高等小學校で挙行、飛行場建設、工場建設工事が開始されます。

飛行場建設は京都飛行場建設事務所(西村隆雄技師)の指揮のもと、募集に応じた労務者約2,000名が作業にあたり、軽便機関車27両、運搬貨車600台が使用されました。

昭和17(1942)年4月、飛行場・養成所建設がほぼ完了、21日、陸軍系の逓信省航空局 京都航空機乗員養成所が開所(藤野市之焏大佐)します。

飛行場の設置当初の計画として

①航空機乗員養成所の練習場、
②日本國際航空工業の試験飛行場、
③近畿(特に京都)の防空飛行場、
④平時の旅客飛行場、
⑤大阪の国際飛行場の不時着場、特に最初の3点を重点として設定されます。

昭和19(1944)年4月1日、大刀洗陸軍飛行學校 京都教育隊が養成所内に開隊(柴田勇治少佐、養成所長兼務)、
教育中の第十四期操縦生は航空局委託操縦生となり、7月に卒業、
8月26日、逼迫する戦局に伴い京都航空機乗員養成所は閉鎖され、飛行場は陸軍に移管(所有者は逓信省)されます。

昭和20(1945)年2月20日、大刀洗陸軍飛行學校は第八練習飛行隊に、京都教育隊は第七練習飛行隊に改編(高梨辰雄中佐)され、8月16日、停戦を迎えました。

同9月25日、兵舎・飛行場は米第241工兵戦闘大隊に接収ののち返還され(時期不明)、
逓信省と大蔵省大阪財務局の所管となり、兵舎地区に逓信省は電気通信職員訓練所「淀学園」、御牧村は大蔵省から土地・建物を借用し淀・御牧・佐山の事務組合立淀中学校を設立(昭和23年12月、大蔵省より払い下げ)、飛行場地区は工業用地に転用されます。

昭和27(1952)年10月、淀学園跡に淀逓信病院(結核療養所)が開設したため、衛生面及び教育施設充足のため淀中学校は移転、跡地は日本電信電話公社に売却、その後、淀逓信病院は南区に移転、建物は全て破壊され総合運動場、飛行場は民間企業工場になり現在に至る。

1937年 日本航空工業設立
1941年 (昭和16年)國際工業と日本航空工業と合併し日本國際航空工業となる
1943年「赤とんぼ」と呼ばれた複葉の練習機(1935年に採用された)95式1型練習機を製造 その他に日本陸軍の空挺部隊である滑空歩兵の輸送用に開発された、二式小型輸送滑空機、大型輸送機、一〇〇式輸送機 (ひゃくしきゆそうき)三式指揮連絡機などを製造。
1946年 日國工業へ改称。鉄道車両、自動車車体への製造へ業務転換。
1951年 日産自動車と提携。
2001年 日産自動車経営統合にて京都工場:2001年閉鎖
閉鎖後子会社のオートワークス京都を同地に設立

初期の飛行機のブレード(プロペラ)は期待と同じ木製で家具、楽器メーカー(現YAHAMAなど)が製造。

逓信省はなじみが無いように感じるかもしれないが、
現在の総務省、日本郵政、日本電電公社(NTT) 郵便や通信を所管する中央省庁だった。

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スタジオ古都 井上清貴 アシスタント:ノッポさん 特別ゲスト 出島義男 さん 音楽 赤道一夫
撮影協力 ※配信場所 バルーンネット株式会社